年末ですな

M-1が終わる、楽しみが一つ減るけどブームは10年一区切りなんでしょう。

お笑いの評論は成立しにくい。

ウケたかどうかが唯一無二の評価軸のはずなのに、ウケは内容だけで決定しない、パラメータは多岐に渡る。同じネタでも、その舞台装置(テレビか、劇場かや、他の演者との関係性など)でウケが変わる。また、客の笑いに対する基礎知識も”ウケ”を必ずしも修飾しない。我々素人はお笑いに対する専門知識はないのに、面白いかどうかの判断はかなり的確にできる。たとえば笑い飯よりスリムクラブが当日面白かったとか。

昔、松本が今いくよくるよの、役割分担を説明し、大柄ないかにもボケ担当のくるよが実は、ツッコミとして機能している事を指摘した。紳助はネタと社会との関係性をわかりやすく図式化し、移ろいやすい”ウケ”を解説する。同じ事を繰り返しても観衆は笑い続けてくれない。表層的なキャッチーさと、コアなネタ運びを両立する手段として、バカリズムはフリップを、森三中はキャッツアイを選択する、いや、森三中は関係ないな。

笑いの専門家でなければ笑いをコンスタントに生み出せないのに、時に素人が玄人を食ってしまう事もある。笑いの評論をお笑い芸人がするのが、構造をさらに複雑にする。同業者も目を通す媒体で、当事者の芸人が自身のネタの構造を開陳せねばならない理由はなく、自然、網羅的な評論になりにくい。また、その評論自体が笑いに昇華されていなければ、芸として成立しないことになる。小説家が小説評論をするのと同じ、プロの批評家とは違う、お笑い評論という作品になってしまう。

面白ければいい。これが原則で、批評を畳み掛けても理屈で笑える訳でなし。演者はウケを批評すると自己矛盾に終わり、表現の幅を狭める可能性もある。

それでも、笑いがなくてもいいから、系統的に評論する部門があってもいいと思う。ジャルジャルのチャレンジがどの位置にあるのか、ハライチの先駆性や、バラエティタレントとライブの漫才の距離感や温度差を説明して欲しい。プロの評論として。

M-1が休憩するなら、お笑いブームのあとを咀嚼し、次のブレイクスルーを待つ番組が深夜にでも出てくることを願う。

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自転車を買う。Trek, 7万近くしやがんの。これで痩せないと詐欺だ。

年末、部屋の掃除、水槽台をADAから買う。高いから、ひよってDoAquaから。ライト、高い。。。。水草中心になるかな。

段ボールの処理にどうしても、もう一つ本棚が部屋にいる。あり物を工面して、足らずを買うか。。。いつまでも無印ではないかもしれんが。

デスクトップパソコンは、近所のパソコン工房で無料で修理してくれそう。よかった。ケーブルの不具合とかいう、想像もつかん。

今日が病院の仕事納め、明日は大学だが。

よい、お年を。