バーバー

コーエン兄弟ってマトリックスだとおもってたら、それはウォシャウスキー兄弟。
さて、人生は退屈で凡庸な毎日の蓄積である。往々にして変化を促すあおりはインチキだと思う、遊びは好きだが、一度きりだ。エドは”ドアノブをまわす勇気が”いると思って愛してもいない妻の不貞を元にゆすりを行う、静かに。音を立てずにゆっくり全てが崩れ、胸の痛い事実を話す相手がいなくなって、エドはこれ以上人生が浪費されるのを見るはイヤだと若いピアニストをサポートする。
ははは、初めて映画をみながらこのコメントを書くが、ストーリーと関係の無いバルコニーに置いたリクライニングシートってアメリカンサバーブの象徴だが、日本人にとっては白鳥が落ちる姿をともに見つめるアムロとララアか、ブラックジャックということだな。

真実の語源はtruth、事実はfactかrealityだ。アメリカの(そして日本でも)裁判ってきっと、事実を人(世論)がどう解釈するかで真実が作られるという過程の事だろう。エドが電気イスに掛けられる時、ホントの犯行を知ってももう、誰にもどうしようもないのだ。

なぜこの話が床屋を主人公に進められ、無能の人のように意味無く伸びる人の髪をストーリーの縦糸に据える必要があったのか?

全体に大人しか出てこない、見ていて本当に気を使わなくていい、すばらしい映画、くだらない日常の果てに週末、一人で見るには最高の映画だった。誰に見取られることの無い、瑣末な自分の人生をそれでもなお、価値あるものにするヒントが垣間見える映画だった。まあ、酔っ払ってみただけなのだが。