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紀北、紀中の津波記録

高濤記というのが、海南で伝承されている。

http://knj961.tumblr.com/post/19229549757

「大津波上り来り四五度も満干これ有り、中にも三度目の高汐猛勢」「村人思い思いに(中略)手近き山々へ逃げ登り、老若男女共に泣き叫ぶ」。当時、船着き場近くにあった柳川家は床上約1メートル浸水したが、津波が到達する前に老母と子どもを逃がし、残りの者も2階で過ごして無事だった。

被害状況には、今も残る地名が続々と出てくる。「名高、藤白大荒れ」「黒江、日方も同様」。対岸で北向きの塩津、戸坂は「無難」としつつ、津波の引き潮で黒江や日方の品々が数多く流れ着いたという。さらに、下津、広川、湯浅は「大荒れ」。田辺や新宮は、海南より「十倍の大荒れ」。由良では、葬式中に津波が襲い、僧侶と弔問客が山に逃げ、棺おけは流されてしまったという。

「何事も過ぎ去り、年久しき事は忘れ易く(中略)子々孫々迄(まで)申し伝え、心得すべき事也」として、教訓を7カ条書き記している。

「津波の時山へ登るを肝要とす」とし、井戸に大便小便が混じって飲めなくなるので「水も二階へ上げ置くべし」。さらに、戸棚の引き出しは水につかると抜けなくなるから必ず抜いておいておく▽塩、薪、明かりをともす油を2階へ上げておく――などを挙げた。

家財や小銭を惜しんで避難しなかった「片意地なる老人」も反面教師として登場する。大工左助の義母は家から流され、21日ほど経って対岸の塩津で遺体が見つかったという。

 

http://www.bousai.go.jp/kohou/oshirase/h15/pdf/2-2.pdf

 

「 

2. 和歌山県 

(1) 「湯浅町津波記念碑」 

和歌山県湯浅町の安政南海津波の記念碑には「大地震津なみ心え之記」(M-354)

と題された文章が刻まれている。そこには、安政元年(1854)6月14日の安政伊賀

地震の揺れ、11月4日の安政東海地震の揺れと、それによる小さな津波を「川口よ

たくることおびただし」と表現している。「よた」というのは海水面の異常な小変

動、すなわち小さな津波を意味する。そのあとで、11月5日の安政南海地震の津波

について、こう描写している。すなわち、「大木大石をさかまき、家蔵みじんに砕

き高波押し来るの勢いはすさまじく、おそろしなんといわんかたなし。」と書かれ

ているのである。そのあとに、地震の揺れに船に避難しようと乗りこんだ人が、地

震のあとにしばらく時間をおいてやってきた津波に船もろとも流され、転覆や破船

によって流れに放り出されて、溺死の人も少なくなかったと記されている。 

そうして、碑文では、さらに次のように文章が続いている。 

「宝永四年の地震にも浜辺へ逃げて津浪に死せし人のあまた有りしとなん。聞き

つたふ人もまれまれになり行ものなれば、この碑を建置ものぞかし」と、書かれて

いる。すなわち、147年前の宝永地震のときにも、浜辺へ地震の避難をして、そこ

で津波にあって死んだ人が多かったということである。このような伝承も時がたっ

て知っている人が少なくなったものだから、子孫へ伝承を伝えるためにこの石碑を

建立することにしたのである、というのである。 

大坂大正橋の石碑文と全く同じ教訓を得て、この石碑が建てられたことを物語っ

ている。 

 

(2) 和歌山県日高郡美浜町(旧松原村)「津浪警告碑」(M-354) 

和歌山県日高郡美浜町の旧松原村に「津浪警告碑」がある。文久2年(1862年)

5月に建立されたもので、その碑文は次の通りである。 

「後世もし大なる地震の時は必ず津浪起きると心得て、浜中の人々は大松原の小

高きところへ集り居るべし。さあれば高波の患へ、はた地震の恐れなかるべし。船

などにては遁(のがれ)んとすべからず。諸人此事をゆるがせに思ましきもの也」

現代語に近いので、意味は容易に理解できるであろう。大地震の時には必ず津波

が来ると考えて、大松原のなかの高台に避難せよ、地震の避難に船は使うな、とい

うのである。この文の後ろに次の文が続く 

「因(ちなみ)に曰(いはく)、嘉永七寅霜月五日の大地震、続いて津浪起り来

れり。初め地震を避んとして舟に乗り、川内に浮び居し輩(やから)沈没せし事誠

に嘆はし。よって後世の為にそのあらましを録しおわりぬ。」 

地震の被害を避けようとして舟に乗ったところ、川の中で津浪にあって溺れたこ

とはまことに残念である。だから、後世の子孫のためにここにおよその事情を記録

しておくのである、というのである。ここにも、子孫への教訓を残そうとする先人

の強固な意志を読み取ることができる。 」