帰国、電子書籍


帰ってきてしまった。ビールばっかり飲んでしまう。

学会も面白かったが、ニューオーリンズバーボンストリートバンコクのパッポンストリートのパクリと思えるほどの相似で楽しかった。商業エロは苦手なのだが、音楽の垣根が低くて嬉しく、後輩と共にライブハウスを5件はしごした。セミプロレベルなのにベースが信じられない程うまい黒人や、肺活量を測定したくなる、ホーンセクション達、プリンスを高らかに歌い上げる女性ボーカルなど、また、通り沿いの店に入ると数メートルでダンスホール、over 40の男女も激しく踊る街。
楽しむ術を知っている彼国を思った。


移動が多く、単行本を持っていくのは嫌だったので、電子書籍で読んだことのない京極夏彦を。ipad便利。

以下、帰りのUnitedAirでの感想に加筆。
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京極夏彦「死ねばいいのに」

本格的な小説としては、はじめてDLした電子書籍。妖怪物はなく、「死ねばいいのに」にした。
6話構成。ストーリーテラーである渡来ケンヤが、被害者女性アサミの関係者と一人ずつ会って、彼らと話をしながら”アサミ探しの旅”をする体裁を取る。しかし、誰もアサミの話をせず、自分語りばかりである。その過程で浮かび上がるのは、誰よりも不幸な状況のはずのアサミが不平を言わず「幸せが無くなるのが怖い、死にたい」という願望を持つのに対して、関係者達は「アサミを気遣う振りをしながら、彼女を利用するか、攻撃するか、無関心でいた(しかし彼女への愛情はきちんと流れている)」そして彼らは一様に、不平不満に満ちた生活の中で「生きたい」という欲望を持っていたという事実である。

「死ねばいいのに」とは、DT浜田の言説であろう。その文脈は、憧れを持って受け入れられるスターなどの対象が、テレビ的にバラエティの緊張感を無くそうとする時に発せられる物。視聴者は、「なんも、死なんでもええやろ」という内燃的なツッコミを持ちながら浜田のクールダウンを受け入れる。

通常口にすることのない怨嗟の言葉を発する時はどんな状況だろうか?

作者・京極がテレビでふと耳にした浜田のフレーズのインパクトに、その状況探しが始まったのではないかと類推する。バラエティの土俵と関係のない小説空間で、この言葉が生きるのは、映画、「バカヤロー」のような閉塞状況に対する救いのご託宣であると。社会的弱者と考えられるケンヤが、様々な肩書きを持った人々より高位に立ち、ヤクザに対しても「不平の裏に見える自己憐憫」を看破し、全存在を否定しうる決めゼリフでその心うちを露見させ、懺悔後の救いを与える相対的強者になる。

彼の強さの源泉は、ウソを許さない「正直さ」であろう。4回しか会った事のないケンヤが付き合いの長かった誰よりもアサミを理解し、さらに理解したいと正直に思って、アサミの真実を探し続ける姿勢である。それは、芝居がかった”愛情”などではなく、静かな好奇心であった。不思議な物--それは妖怪といえるかもしれない--に直面するとき、人は衝動的な行動を取ってしまう。そして、それを惹起したストーリー(理屈)を探したくなる、これは強い衝動なのだと作者は問いかける。

辛い時に「死ねばいいのに」という呪文を心の中で唱える思考実験は、「死なんでもええやろう」という、生への執着の強さを思い起こさせ、自己の甘えへの再評価を可能にし、他者への関心を取り戻させる。

誰がアサミを殺したのか、アサミは不幸なのか。

ケンヤは人との対峙の中で、「呼び名」と「言い回し」にこだわる。俺馬鹿だから、知らねーから教えてほしいんだけど、という前振りは他者から情報を引き出し、距離感を演出し、最後の呪文へつなげる重要な舞台設定であるようだ。

妖怪世界を記述するカリスマ作家の思考方法にも興味が湧いた。
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あ、写真はニュー・オーリンズのスワンプツアーより、アリゲーターの顎なで。